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[OPD補足] 乙武twitterに見るユーモアの方程式 [OPD]

乙武さんのツイッターが凄いと話題


乙武twitterの自虐ネタがかなりすごい。ただし不謹慎と感じて気分が悪いと思う人も多いようだ。不謹慎と感じる人と、そうでない人に分かれるのはなぜか考えてみる。

乙武氏は仕掛け人と被害者を兼任する方式で、ユーモアを構成している。例えば、女性にもてない男性がもてない話をするのと基本的に構造は同じである。

ここでその不謹慎の段階が想定できる。
1.乙武氏が手足のないことを自虐ネタにする。
2.ハゲの男性がハゲを自虐ネタにする。
3.引きこもりの男性が引きこもりを自虐ネタする。
4.勉強のできなかった人が自分の無知さを自虐ネタにする。

おそらく4.を不謹慎と感じる人は皆無であり、4<3<2<1、と不謹慎度が増すであろう。重大なもの、あるいは自己責任度が低いものほど不謹慎度が増すのである。

また乙武氏の発言がすべて他人の発言だったら面白いと感じる人はあまりいないと思う。乙武氏の発言の頭に"乙武は"という主語を入れて第三者の発言に変更すると面白くも何ともないであろう。本人の発言であるから、観客の視点として読むことができるのである。

しかし観客の視点であってもなお面白いと感じず、不謹慎と感じる人もいるようだ。不謹慎と感じる人は、いじめを目撃してしまったような不快感を覚えるようである。

実際、いじめの被害者が日常的に自虐的ジョークを言っていたケースが多々ある。本人もいじめられていたことを否定し、あれはジョークだからと言うため、周囲の人には仲が良かったと認識されるのであるが、実際にはそうではない。いじめられているという事実を受け入れることをプライドが許さないため、いじめを自虐ジョークであると名前を変えてプライドを保っているケースが多いのだ。

乙武氏の発言を不謹慎と感じる人たちは、上記の、目に見えにくいいじめのタイプを認識して反応しているためではないかと思う。


このエントリーを書くのに"不謹慎"という単語の意味を辞書をひいてびっくり。明らかに実際に使われている意味と違うのだ。辞書では"不注意"のこととしているが、乙武氏の発言は意図的であり、不注意などではない。不謹慎という言葉は、今は"不注意"というより、"軽い悪質さ"ぐらいの意味で使われていると思う。おそらくテレビで多用されることにより、本来の意味とは別の単語になってしまったため、国語辞典と一致しないのだと思われる。

☆☆☆☆☆ ユーモアの条件のまとめ(再掲) ☆☆☆☆☆
・仕掛け人、被害者、観客の三要素を満たす
 大人は仕掛け人、被害者、観客の三要素からなる認識のフレームを持っていて、自分が観客であると認識したとき可笑しさを感じる。
 笑わせたい人を、攻撃行動の傍観者になるように場を作る。

・笑う人は観客のみ
 笑わせたい人を観客にすること。被害者=攻撃対象は笑わせたい人とは別に設定する。被害者=攻撃対象は笑わせたい人の身内や大切な人など同一化しやすい対象ではいけない。 
 オチがわかってはいけない。オチがわかるのは仕掛け人であり、観客ではない。罪悪感が生まれやすい。
 なぜそうなるか理屈が理解できなければならない。理解できないのは被害者の視点だからである。恐怖、驚きが生まれやすい。

・適切な強度を保つ
 過剰に攻撃的ではいけない。被害者が可哀想に感じるほどではいけない。
 毒舌タレントの発言が笑いを生むには、その攻撃をする理由が理解できること、過剰に深刻でないこと、毒舌の対象が観客の自己同一化する相手ではないことなどが必要となる。

・ユーモアの本質は攻撃形式
 いじめの場面は憤りを覚えるが、ちょっとした悪ふざけしている子供たちを見ているのが可笑しいのは、強度の違いにある。
 このために有効なのが、各種の笑い理論で指摘される認識のずれを利用する方法である。ずれによって攻撃を的外れなものにし、強度を弱めることができるからである。従って認識のずれ自体は笑いやユーモアにとって本質的なものではない。小さな子供たちがじゃれあって遊んでいるのを見るのは面白いが、ここには認識のずれというものはないのである。

・ユーモアの進化
 ユーモアは子供の失敗を許容するために生まれたもの。また大人はユーモアを相互に交換することで、お互いが平等であることを認識する。

・ユーモアの誤解例
 一般人に多いのが笑わせたい相手を攻撃してしまうこと。笑うのは被害者ではなく観客なので、第三者か自分をネタ=被害者にしなければならない。
 芸人に多い誤解は、何でもいいから奇妙なことをして笑いを取ろうとすること。奇妙な行為や発言がユーモアとなるには、その発言や行為が誰かへの攻撃の形式を持っていること、なぜそんなことをするのか笑わせたい相手に理解できなければならないのである。

・今日の一言
The comedian had us in stitches.
那个丑角使我们大笑不止。
あのコメディアンに私たちは抱腹絶倒させられた。
그 개그맨에게 포복절도하게 했다.

タグ:乙武
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アンジャッシュに学ぶユーモアの方程式 [OPD]

 昨日のエントリーでユーモアとは何かを解説し、ユーモアの必要十分条件を提示した。今日は実践編として、アンジャッシュのコントを取り上げて解説する。

キュータくん


仕掛け人:キュータくん
被害者:渡部お兄さん
観客:観客

攻撃性の表現
 キュータくんの台詞は渡部お兄さんに対する攻撃性に満ちている。渡部お兄さんを尻に引いたり、火事の原因にしたり、子供相手なのに食後にタバコを吸うとか、防災キャンペーンをぶちこわしにするような発言をして渡部お兄さんを困らせるのである。
 基本的に被害者は渡部お兄さんだけであるが、電話を置き忘れたという部分でのみ児嶋も被害者として設定されている。

論理的納得性の工夫
 台詞を誤用することで渡部お兄さんに対する偽攻撃が生まれるのであるが、その理由として児嶋が遅刻したためにリハーサルが出来なかったことが宣言されている。こうすることで、キュータくんの台詞の誤用を観客に納得させている。
 またキュータくんの台詞は「タバコを吸う」を除くと一度は正しく使っている。一度正く使ってから誤用するのである。もしただの児嶋の押し間違いなら、こんなことは有り得ないわけで、ここに工夫があるのだ。一度正しく使うことで、観客に台本にそういうキュータくんの台詞があることを納得させておくのである。「タバコを吸う」は火事原因として自然なのでいきなり使って問題ないのだろう。逆に「おいしい」「興奮する」などは一度使わないと不自然で、笑いよりも困惑を生みやすい。
 キュータくんの台詞の後に、渡部が丁寧に突っ込むことで説明しているのも興味深い。顔面を打った子供に「おいしい」といったあと、「芸人じゃないんだから」とキュータくんの言葉の意味を説明することで、観客を納得させるのである。

お天気お姉さん


仕掛け人:児嶋一哉
被害者:渡部建、お天気お姉さん
観客:観客

攻撃性の表現
 お天気お姉さんが来ないため、かわりに録音で済ました結果、おかしな放送となり、司会の渡部を被害者として困らせるわけである。あまりに不自然で視聴者にバレバレで司会として困っているのだ。
 「好きな日中最高気温は何度ですか」という質問では、これを言わされる渡部が被害者となっているだけであるが、後の「今後大型になる恐れはありませんのでご安心ください」という台詞では、間違った応答するお天気お姉さんと、困る渡部がまとめて被害者として描かれ、強く笑いが生まれる。
 後半ではお天気お姉さんを大酒飲みでエッチ好きということにしてしまい、お天気お姉さんを被害者として大きくクローズアップしている。この二重の被害構造が強力な笑いを生み出している

論理的納得性の工夫
 お天気お姉さんの言葉がすべて、天気予報で使われるもののに限定されている。こうすることで、観客を納得させているのである。
 またお天気お姉さんが欠席であること、音源を用意したといった納得の工夫も巧みである。



 これはすごい。正直、アンジャッシュは天才ではないかと思った。ここではついに仕掛け人は完全に消え去り、電話する二人とその相手までが被害者の枠組みに組み込まれているのだ。

仕掛け人:偶然
被害者:渡部、児嶋、誘拐犯、彼女
観客:観客

攻撃性の表現
 ここでは電話の相手に対する攻撃性が成立するように出来ている。二人の無関係な電話の会話の組み合わせの結果生まれるイメージが攻撃性を生み出すように出来ている。
 例えば、誘拐犯/彼女は、服装が黒ずくめのパンチパーマなのに赤のミニスカートだったりする。あるいは渋谷のハチ公に乗る渡部を想像したりする。トリックにかかって勘違いした会話という枠組みにピッタリとはまる会話が連鎖していくのだ。
 最期は、渡部自身もエロビデオ好きとして描かれる。父親の深刻さの横でアダルトビデオの返却を訴える台詞がリズミカルに呼応することで、誘拐犯被害者たる父の憤慨を、ビデオ返却要求と同レベル化してしまい、攻撃性を生み出している。

論理的納得性の工夫
 お互いの台詞がうまくかみ合うように工夫されている。父親と誘拐犯の会話、恋人同士の会話、友人同士の会話として、それぞれ自然なようになっている。
 このコントはあまりにうまく作られているために、笑いよりも感心してしまい、拍手が目立つのも注目点である。

☆☆☆☆☆ ユーモアの条件のまとめ(再掲) ☆☆☆☆☆
・仕掛け人、被害者、観客の三要素を満たす
 大人は仕掛け人、被害者、観客の三要素からなる認識のフレームを持っていて、自分が観客であると認識したとき可笑しさを感じる。
 笑わせたい人を、攻撃行動の傍観者になるように場を作る。

・笑う人は観客のみ
 笑わせたい人を観客にすること。被害者=攻撃対象は笑わせたい人とは別に設定する。被害者=攻撃対象は笑わせたい人の身内や大切な人など同一化しやすい対象ではいけない。 
 オチがわかってはいけない。オチがわかるのは仕掛け人であり、観客ではない。罪悪感が生まれやすい。
 なぜそうなるか理屈が理解できなければならない。理解できないのは被害者の視点だからである。恐怖、驚きが生まれやすい。

・適切な強度を保つ
 過剰に攻撃的ではいけない。被害者が可哀想に感じるほどではいけない。
 毒舌タレントの発言が笑いを生むには、その攻撃をする理由が理解できること、過剰に深刻でないこと、毒舌の対象が観客の自己同一化する相手ではないことなどが必要となる。

・ユーモアの本質は攻撃形式
 いじめの場面は憤りを覚えるが、ちょっとした悪ふざけしている子供たちを見ているのが可笑しいのは、強度の違いにある。
 このために有効なのが、各種の笑い理論で指摘される認識のずれを利用する方法である。ずれによって攻撃を的外れなものにし、強度を弱めることができるからである。従って認識のずれ自体は笑いやユーモアにとって本質的なものではない。小さな子供たちがじゃれあって遊んでいるのを見るのは面白いが、ここには認識のずれというものはないのである。

・ユーモアの進化
 ユーモアは子供の失敗を許容するために生まれたもの。また大人はユーモアを相互に交換することで、お互いが平等であることを認識する。

・ユーモアの誤解例
 一般人に多いのが笑わせたい相手を攻撃してしまうこと。笑うのは被害者ではなく観客なので、第三者か自分をネタ=被害者にしなければならない。
 芸人に多い誤解は、何でもいいから奇妙なことをして笑いを取ろうとすること。奇妙な行為や発言がユーモアとなるには、その発言や行為が誰かへの攻撃の形式を持っていること、なぜそんなことをするのか笑わせたい相手に理解できなければならないのである。

・今日の一言
午前0時過ぎから明け方にかけて大荒れになります。
오전 0시 넘어서부터 새벽녘에 걸쳐서 폭풍우가 됩니다.
从零点到黎明要起大风暴。
There will be some violent weather from 12:00 am until dawn.

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ユーモアとは何か? [OPD]

humor
 Anything that is funny, whitty, or amusing, or that has the capacity to make people laugh.
 Most forms of humour can be classified into the following categories: innuendo, pun/wordplay, mimicry/parody/satire, irony/sarcasm, exaggeration, analogy/comic metaphor, inappropriate response, comic repetition, reversal of reality, black humour.

ユーモア
 こっけいだったり、機知が利いていたり、愉快なもの。あるいは人々を笑わせるもの。
 ほとんどのユーモアの形式は以下のカテゴリーに分類される。ほのめかし、しゃれ/言葉遊び、物まね/パロディ/風刺、皮肉/あざけり、誇張、類推/喜劇的隠喩、不適切な反応、喜劇的反復、現実の逆転、ブラック・ユーモア。


Q.ユーモアとは何か?
 興味から分岐した感情に、可笑しさがある。面白いジョークを聞いたりすると、腹を抱えて笑ったり、ぷっと吹き出したりする。笑いをこらえようとして赤面することもある。そしてこうした可笑しさを生み出させる行為を、ユーモアと呼ぶ。
 人間の生活においてユーモアのセンスは大切であるが、このしくみは意外と知られていない。人はどんなときに可笑しさを感じるのか、可笑しさを与えるユーモアはどうすれば作り出せるのか?
 そのためにはまず可笑しさという感情がなぜ進化の中で発達したか、すなわち可笑しさが快感である理由を考えると解決へと結びつく。
 快感とは、その状態の継続、再体験へと向かわせるもの。しかし、われわれの知っている可笑しさは、それだけを自分で作り出すことが難しく、多くは他者に与えられるものである。漫才なども、観客としてはじめて可笑しいと感じる。再体験したくとも、自分でその状態を作り出すことは難しい。
 感情発達の土台である狩猟採集生活について考えてみよう。その時代にどうやって可笑しさを作り出すことができるのか。
 子供の頃に戻ればわかる。いたずらしたり、ふざけるとが可笑しさを生み出すことができる。子供はいたずらしたり、からかうのが大好きだ。英語では「Are you kidding?ふざけているの?」といい、子供とは、からかう、ふざける存在なのだ。
 子供はなぜいたずらするかというと、おもしろいからだ。すなわち、その状況が可笑しく快感だからだ。当然、子供がいたずらすることには何か自然淘汰される有利さがあるのである。
 いたずらの淘汰上の価値の一つ目は、他者との距離を測ること、対人行動の範囲──何をしてよく、何をしてはいけないか──を認識するためである。そのためそれが十分に認識できるようになった大人では、いたずらは少なくなる。
 二つ目は、信頼関係の強化である。いたずらの特徴は、見た目は攻撃だが実害がないということ。本当の攻撃ではないから、その後、笑うという極めて無防備な状態になることにより、攻撃を否定するのである。腹を抱えて笑う態勢など防御能力0の危険な状態を示して、攻撃であり、それがトリックであることを表明しているのである。
 人間には失敗や勘違いがつきものだ。そうしたとき、相手にちょっとした損失を与えてしまうこともあるだろう。それを敵対的なものと感じて怒りだすようでは、信頼関係がすぐに壊れてしまう。お互いに偽の攻撃としてのトリックを経験しあうことにより、信頼関係を安定させることができるのである。
 三つ目は、相手の注意をひくためである。こちらに注目してほしいとき、相手の関心を自分に向けてほしいときの行動である。そのため、恋愛、嫉妬などでも採用される。
 偽の攻撃とは、驚かせることともいえる。偽の攻撃とは、一見攻撃に見えるもの、形式だけの攻撃で、相手がそれにたいして防衛体制をとったところで、「攻撃じゃないよ」という意味で笑うのである。
 例えばお笑いタレントにすぐ裸になる人がいるのは、裸になることが偽の攻撃だからである。相手は嫌がるが、あまり実害はないからだ。ヌーディストビーチでするとギャグにはならない。
 ものまねが面白いのは、まねされるタレントへの偽の攻撃だからである。子供のころ学校の先生のものまねをして人気者になる同級生がいたはずだ。
 こうしたいたずら――トリックは、大人になるにしたがい減少する。罪悪感が関係してくるのである。トリックをすると大人に叱られる。罪悪感がトリックの快感を上回ると、トリックはしなくなるのである。例えば大人はバラエティ番組で食べ物を粗末にしてふざけていると、教育的でないと嫌がる。食べ物を粗末にすることが罪悪感に触れるためである。

●ユーモアとは平等による葛藤回避の技術
 漫才やコントなどでは、オチが読めると笑いが半減する。予想できてしまうと、可笑しさが減ってしまうのだ。これはなぜか?
 トリックの結果が予想できるのは、トリックの実行者と、それを見ていて止めなかった人である。予想できるということは、自分をトリックの実行者の立場に立たせ、罪悪感が可笑しさを抑えてしまうのである。
 しかし、わざとか無意識か、つまらないネタを連発し、その場をいったん白けさせて、笑いをとるという複雑なこともできる。
 つまらないギャグをいった後に、つっこむと笑いをとれるのは、笑えないタレントがトリックの被害者の表現となっているためである。いわゆるぼけのタレント、松村邦彦、村上ショージなどがこの手法である。
 可笑しいのはなんらかの失敗行動であることが多いが、それがどうして失敗したのか理解できないと笑えない。雪の積もった道で滑って転ぶのを見かけると可笑しいと感じるが、アスファルトの道路で重力がなくなったかのように浮き上がって転んだとしたら、超常現象と思って驚くだろう。可笑しいと思えるには、その対象の失敗がどのようなしくみで発生したのかを知らなければならず、しくみがわからない失敗にたいしては可笑しさを感じないのである。
 これはなぜかというと、そのことがトリックの被害者の立場に立たせるためである。トリックの被害者は、その瞬間何が起こったかわからない。そのときのような、自分がトリックにひっかかったような気分になるのだ。
 またもし転んだ人が血まみれになって動かなくなったなら笑えない。重大なことは笑えないのである。この場合は、恐怖や驚きなど異なる感情の力がはたらいて可笑しさを追い払ってしまうためである。
 また、笑われた対象と同じ側にいると笑えない。笑われたのが、自分の子供だと笑うのはほとんど不可能だ。この理由も、自分がトリックにひっかかったような気分になるからである。
 しかし、自分が笑われた場合でも、責任が追求されないようなリラックスした状況では一緒に笑うこともある。自分を客体として対象化するからである。もちろん失敗の責任が自分にふりかかるような状況なら笑えない。
 自分が笑われた場合でも、責任がないと笑うことができるのは、トリックの観客へと視点を移動できるためである。
 これで、だじゃれの原理も説明できる。
 だじゃれは、二種類に分けられる。言った後で、みんなが「オーッ」と感心して笑うようなものと、「そうじゃない」とみんなにつっこまれるものである。
 前者のだじゃれは、意図的な言い間違いを意味している。意図的ないい間違いというのは、トリックの一種なのだ。相手のいったことがトリックにひっかかった状態であることを示しているのである。
 後者のだじゃれは、トリックの被害者の反応である。自分がいまだに勘違いしたままであること、すなわち、トリックをこうむった後の混乱と動転を表現しているのである。
 だじゃれは言葉のトリックということができる。

●ユーモアの三項構造
 可笑しさの複雑さがもたらす効果に、次のようなものもある。好きな人や身近な人の悪口を自分でいうのは平気なのに、他人にいわれると腹が立つということだ。
 好きな人、身近な人とは自己と同じ側である。だから、好きな人を悪口を第三者にいう場合は、自分の失敗を語って笑ってもらおうとするのと同じ。これらは、言葉のトリックであり、偽の攻撃であるので、笑顔でいうのが普通で、本当に嫌そうな表情はしていない。本当に嫌そうな表情なら、本当の攻撃、本当の悪口である。
 ところが、もし相手が同調して悪口をいい出すと、それは自分の悪口をいわれるのと同じになってしまい嫌な気分になるのだ。
 自分や身近な存在の悪口をいうのは、ユーモアとして、相手に笑ってもらうためにいうのであり、相手に意見や同調を求めてはいないのである。
 こうしたユーモアは、いろいろな形で現れる。たとえば、あだ名というものは、ユーモラスに響く。それは弱い攻撃だからである。
 業界の専門用語というものは、弱い攻撃で構成されていることがしばしばある。タクシーの長距離客を「幽霊」と呼ぶのは、めったにいない珍しいことだからだが、幽霊という言葉にはかすかに攻撃が含まれている。
 この可笑しさを生む偽の攻撃は、本当の攻撃と区別するのが難しいものだ。相手の気持ちになって判断しなければならない。ユーモアのつもりで女性にセクハラしてしまうことにもなりかねないのである。偽の攻撃でも、攻撃された被害者は喜ばないからだ。
 テレビの番組で、ダウンタウンや明石屋さんまが女性を泣かせてしまうことがあるのはこのためである。彼らはテレビによる「作りものの世界」効果を利用して、日常では許されないような強い攻撃で笑わせる。テレビだからどんなに強く攻撃しても視聴者には偽の攻撃として認められるのである。しかし、それに慣れていない若いタレントは、その現場にいるわけだから、偽の攻撃と受け取れず泣いてしまうことがあるだ。
 ユーモアの攻撃は目下の人に向けてはいけない。ユーモアはお互いにからかい合うからこそ信頼関係が深くなるのであり、立場上反論できない目下の人に向けると、ただの嫌がらせになってしまうのだ。同格の友人に向けるのが基本である。目上への偽の攻撃は諷刺、同格ならユーモア、目下なら嫌がらせとなるのである。
 諷刺はユーモアに似ているが、被害者たる目上の人物との信頼関係を強化する効果はない。また、目上の人から下へとユーモアを返すこともなく、その機能や効果がユーモアとは異なる。
 もし、ユーモアあふれる人になりたいのなら、第三者への弱い攻撃か偽の攻撃をするか、自身が攻撃されたかのような戸惑ったふるまいをすることである。しかもそれは、予想できない行為でかつ相手に理解できるものでなくてはならない。
 ユーモアは、三つの要素が欠かせない。仕掛け人、被害者、観客の三つである。
 凍った道で滑った人が可笑しいという場合、仕掛け人=天気、被害者=滑った人、観客=あなたとなる。
 自分の失敗談で笑わせる場合は、仕掛け人と被害者を一人で兼任しているし、社会風刺では社会が被害者となる。
 TVドラマのパターンとして、見かけのさえない主人公が実はとても有能で、周囲がそれを知らないというのがある。必殺仕事人の中村主水など。これが面白いのは、仕掛け人=作者あるいは主人公、被害者=敵や周囲の人、観客=視聴者という形でユーモアを満たしているからである。
 漫才が通常二人なのも、この三つの要素を正確に満たしているためである。仕掛け人=つっこみ、被害者=ぼけ、観客=観客なのである。
 ユーモアあふれる人になりたい、そう思うなら、まずこの三要素を正確に認識し、偽の攻撃の程度をマスターするとよい。特に注意すべきことは、仕掛け人と被害者、すなわち舞台の漫才師たちは自分で笑うわけではないことである。笑うのは、あくまでも観客のみである。笑わせたい相手を間違って被害者にしてしまう人が多いので、ここは要注意である。
 可笑しさはトリック行為における実行者及び被害者ではない偶然の傍観者を体感することで生まれるのである。ここでいうトリックとは、子どもによく見られるいたずらや大人のジョークなどを示す。
 大人は、可笑しさ認識のための三項関係――仕掛け人・被害者・観客からなるフレームを持っていて、状況を認知したときに自分が観客であると認識すると可笑しさを感じるのである。

●葛藤回避の最高次元としてのユーモア
 可笑しさは、興味から分岐した感情である。可笑しさは、興味の対人行動から評価による分岐によって生まれた感情である。ただし、罪悪感を生む部分が削除される。
 可笑しさ高度な社会関係が要求される動物にのみある。
 集団で生活する動物は、お互いのテリトリーを共有しあう必要がある。そのため、ボスを中心とした順位性によりそれを緩和する。人類ではそこにユーモアが加わる。ユーモアは、相互に偽攻撃することにより、お互いのテリトリーを重複したままで順位なしに許容しようとするものなのだ。ユーモアは対等を意味するのである。
 もしも、攻撃されることに敏感で、弱い攻撃、偽攻撃のすべてを攻撃として解釈すると、人間関係がうまくいかない。大人になっても他人と距離をおいてしか付き合えず、誰かを全面的に信頼することのできない人は、子供時代のいたずらの経験が不足しているのかもしれない。
 可笑しさは、人類だけか、一部の類人猿にはあるかもしれない。
 手話を教えられたゴリラのココに、白いタオルを見せて色をたずねると、赤いと答えた。何回聞き直しても同じ答えである。ところが、そのタオルをよく見ると赤い糸くずがついていたという。これは、相手の能力を低さを主張する攻撃の形をとっており、偽攻撃であるかもしれない。

☆☆☆☆☆ ユーモアの条件のまとめ ☆☆☆☆☆
・仕掛け人、被害者、観客の三要素を満たす
 大人は仕掛け人、被害者、観客の三要素からなる認識のフレームを持っていて、自分が観客であると認識したとき可笑しさを感じる。
 笑わせたい人を、攻撃行動の傍観者になるように場を作る。

・笑う人は観客のみ
 笑わせたい人を観客にすること。被害者=攻撃対象は笑わせたい人とは別に設定する。被害者=攻撃対象は笑わせたい人の身内や大切な人など同一化しやすい対象ではいけない。 
 オチがわかってはいけない。オチがわかるのは仕掛け人であり、観客ではない。罪悪感が生まれやすい。
 なぜそうなるか理屈が理解できなければならない。理解できないのは被害者の視点だからである。恐怖、驚きが生まれやすい。

・適切な強度を保つ
 過剰に攻撃的ではいけない。被害者が可哀想に感じるほどではいけない。
 毒舌タレントの発言が笑いを生むには、その攻撃をする理由が理解できること、過剰に深刻でないこと、毒舌の対象が観客の自己同一化する相手ではないことなどが必要となる。

・ユーモアの本質は攻撃形式
 いじめの場面は憤りを覚えるが、ちょっとした悪ふざけしている子供たちを見ているのが可笑しいのは、強度の違いにある。
 このために有効なのが、各種の笑い理論で指摘される認識のずれを利用する方法である。ずれによって攻撃を的外れなものにし、強度を弱めることができるからである。従って認識のずれ自体は笑いやユーモアにとって本質的なものではない。小さな子供たちがじゃれあって遊んでいるのを見るのは面白いが、ここには認識のずれというものはないのである。

・ユーモアの進化
 ユーモアは子供の失敗を許容するために生まれたもの。また大人はユーモアを相互に交換することで、お互いが平等であることを認識する。

・ユーモアの誤解例
 一般人に多いのが笑わせたい相手を攻撃してしまうこと。笑うのは被害者ではなく観客なので、第三者か自分をネタ=被害者にしなければならない。
 芸人に多い誤解は、何でもいいから奇妙なことをして笑いを取ろうとすること。奇妙な行為や発言がユーモアとなるには、その発言や行為が誰かへの攻撃の形式を持っていること、なぜそんなことをするのか笑わせたい相手に理解できなければならないのである。

明日、[OOD補足] アンジャッシュに学ぶユーモアの方程式へと続く。

タグ:ユーモア
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宇宙とは何か? [OPD]

universe
 Everything that exist, including space, time, and matter. The study of the Universe is known as cosmology. Cosmologists distinguish between the Universe with a capital "U", meaning the cosmos and all its contents, and universe with a small "U", which is usually a mathematical model derived from some physical theory.
 The real Universe consisting of stars and gas. The Universe is expanding, so the space between galaxies is gradually streching, causing a cosmological redshift in the light from distant objects.
 There is now strong evidence that space is filled with unseen dark matter that may have many times the total mass of the visible galaxies; and even more mass may be accounted for by a still-mysterious dark energy. The most favoured concept of the origin of the Universe is the Big Bang theory, according to which the Universe came into being in a hot, dense fireball 13.7 billion years ago.

宇宙
 空間、時間、物質を含む存在するもののすべて。宇宙の研究は宇宙論として知られる。宇宙論者は、宇宙とその中身すべてを意味する大文字Uの宇宙と、主に物理法則から導きだされる数学的モデルである小文字uの宇宙を区別している。
 実体宇宙は星とガスから構成される。宇宙は膨張しているため、銀河同士の空間は徐々に広がり、遠距離の物質からの光は宇宙赤方偏移を引き起こす。
 見える銀河の総量のおそらく何倍もの見えない物質で空間が満たされているという強い証拠がある。宇宙の起源としてもっとも人気のある考えは、宇宙は137億年前に高温、高密度の火の玉として生まれたとするビッグ・バン理論である。


Q.宇宙とは何か?
 アインシュタインが提議した有名なパラドックスにEPR効果がある。
 光子にはスピンという要素がある。これはある種の回転なのでスピンと呼ぶ。
 1つの光源から、2つの光子が正反対の方向に放たれる。このとき、光子の持つスピンはもう1つの側と組になっている。1つがaならもう1つはb、あるいは逆だったりする。二つの組み合わせが決まっているのだ。
 この2つの光子が発射された後に、十分遠くに離れたところで、その片方のスピンを計測する。そして、それがaと判明すれば、自動的にもう片方はbと判明する。

 問題なのは、この光子の移動中はスピンは数値をもっておらず、計測することではじめてスピンが決定されるということだ。
 そうすると、ある片方のスピンを計測することで、もう1つの光子のスピンが決定されることになってしまう。すなわち、片方を計測するとその情報がもう1つに一瞬にして伝わることになってしまうのだ。原理的には地球から遠く離れた二カ所で実験しても情報が瞬時に伝わることになる。アインシュタインはこれを、光速度を超えることを禁止している相対性理論に矛盾しておりおかしいと考えた。
 この実験は後に実際に行われ、アインシュタインは間違っており、確かに計測する瞬間に数値が決定されることが確認された。

 これはそもそも2つの光子が放たれたと考えること自体が誤りなのである。光子2つというのも、実は計測されたときに確認されているに過ぎない。一つの光源からある一定の光が広がって伝播したというだけなのだ。光の粒子性は、波と波が相互作用した瞬間がそう観測されるだけなのである。
 たとえそれが地球から何光年も離れたところで計測したものでも、その二つの光子は一つの波のままであり、一つの存在であるわけである。

 光が動く、光速度で動くという場合、それは電磁場の波の伝播であって、ピッチャーが投げたボールが動くとかいうのとは、全く意味の異なるものだ。
 光=電磁波は動かない。光速度とは波の伝播速度であり、いわゆる物質の動く速度とはまったく別物で、光子の伝播は、水面の波と同じで何かが到達点まで動いているわけではないのである。
 対して私たちがふつう考える物質の動く速度とは、波の作用点の断続的な変化のことだ。モノが動くときなめらかに連続的に動いていると感じるが、実はコマ送りなのである。それは波の結果として生まれるものであるから、波そのものの伝播速度を超えることはできず、光速度が物質の速度の限界となる。

 光子と光速度にはさまざまな不思議な特徴がある。
 相対性理論によると光速度で動くと時間は流れない。すなわち光自身には時間がない。光には寿命がないのもそのためである。
 EPR効果のとき、どれほど遠距離を移動していても、光自身は時間が流れていない。波の伝達には時間が流れていないのだ。すると時間はどこで流れているのか。波の作用点である物質の部分にこそ時間が活動するのかもしれない。
 物理学の法則は、時間の前後に対称であることが知られている。素粒子は時間を逆行してもかまわないのだ。例えば反粒子は時間を逆行する粒子とも定義される。
 素粒子にはアイデンティティーがないとされる。ある場所にある光子一つや電子一つは、他の場所にある光子一つや電子一つと全く同じものであり区別することはできない。このことは宇宙に存在するすべての光子や電子は、それぞれが一つの巨大な海であることを示唆している。宇宙には光子の海、電子の海が広がっているのである。

 エネルギーを得るとは、存在分布が広くなるということーー波の広がりが大きくなることに対応する。光子は質量はないがエネルギーを持っている。そしてE=mc2の方程式で表されるように、エネルギーと質量は交換可能である。
 質量があるとは、位置が固定されていること。質量のあるもの、簡単にいうと重いものは運ぶのが大変ということだ。ある場所に偏在しているということである。逆にいうと、質量のない光子はすべての場所に存在するのである。
 光子は電磁波であり、ある周波数で振動しているが、その振動は進行方向と垂直に振動し、進行方向へは振動しない。進行方向へ振動すると光速度を越えてしまうのだ。また光は制止することができない。これは光子の移動そのものが振動、すなわち波というべきであることを示唆している。

 宇宙を想像しよう。その宇宙を構成するのは光子が一粒だ。
 一粒であるから、動くことには意味がない。そのため空間というべきものもない。物の位置は相対的なものだからである。しかし、ここには既に時間がある。光子は波長を持っているためだ。波長は時間なしに定義できない。時間は空間がなくとも成立することがわかる。
 超ひも理論では、様々な物質の違いはひもの振動数の違いとして表現される。量子論では物質とは場であるとも表現される。
 EPR効果は、空間や距離という考えに衝撃を与えた。それは空間の中をモノが動くという認識に問題があることを示したのだ。宇宙には空間はなく、時間と物質で構成されるというべきなのかもしれない。空間は時間と物質に還元されるということだ。モノが移動する空間という概念は誤りなのだ。時間を含んだ各種の物質という糸で縫い合わされた織物、それが宇宙なのある。
 宇宙とは時間を持つ物質によって織られた織物である。

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物質とは何か? [OPD]

matter
 That which occupies space, possessing size and shape, mass,movability, and solidity (which may be the same as impenetrability). Its nature was historically one of the great subjects of philosophy, now largely pursued through the philosophy of physics.
 Plato and Aristotle passed on a classification of matter into four kinds (earth, air, water, and fire) but also the view (not necessarily held by Aristotle himself) that any such division reflected a different form taken by one prime, undifferentiated matter or hyle. In Aristotle there is also a fifth kind of matter (quintessence) found in the celestial world, whose possessors were thereby exempt from change.
 This physics was replaced from the 17th century onwards by classical conception first of corpuscles and then of modern atoms. In modern physics, the tidy picture of inert massy atoms on the one hand, and forces between them on the other, has entirely given way.
 The quantum mechanical discription of fundamental particles blurs the distinction between matter and its energy, and their interaction. Philosophically, however, quantum mechanics leaves considerable unease of its own.

物質
 固体性(不可入性と同じであろう)と、大きさと形と質量と可動性と持つ、空間を占めるもの。物質の性質は歴史的に哲学の一つの重要なテーマであり、今は物理学の哲学を通して広く研究されている。
 プラトンとアリストテレスは、四種類(地空水火)の物質の種類だけでなく、そのような分類のすべてが、一つのそれ以上分割できない主要な物質や質料によってとられたさまざまな違いを反映しているという概念(アリストテレス自身に固執する必要はない)を後に伝えた。アリストテレスの体系にはまた、それを持つものは変化することがない、天界に見いだされる五番目の物質(エーテル)がある。
 この物理学は17世紀以来、現代の原子と素粒子の最初の古典的概念によって取って代わられた。現代物理学おいては、不活性で大きな原子の整然とした図式やそれらの間の力といった考えは、完全に取って代わられた。
 素粒子の量子力学的描写では、素粒子の相互作用や、物質とそのエネルギーの違いは曖昧である。しかしながら、哲学的には量子力学それ自身が少なからぬ困惑となって残っている。


Q.物質とは何か
 辞書などの物質の定義は、質量もしくはエネルギーを持ち、ある場所を占めているもの。電子や原子はもちろん、広義には光子も含むとされる。

 さて、ある場所を占めているというのはどういうことか?
 その占めているところに何かを侵入させると運動が変化するということである。ビリヤードの玉の衝突をイメージするとよい。ものを見るという場合も、その占められたところから発された光を受けとっているし、あるものを手で触る場合も、手と物質の作用がある。
 作用することができない、すなわち、侵入した方もされた方も影響しなかった場合、すり抜けたわけで、この場合、そこには何もなかったから通り抜けたと表現する。
 "ある"というのは、作用しているということ、作用することができるということだ。
 この作用のある範囲を大きさと呼ぶ。たとえば箱の大きさは手で触って反応がある範囲なわけである。

 問題となるのは、その作用が行われていないとき物質はあるのかということだ。認識するためには光などなんらかの2つ以上の存在の相互作用がなくてはならない。物質というのは、単独では確認できないのだ。そういう意味において物質とは仮説的存在であるということができる。
 物質には階層がある。分子を構成するのは原子で、原子を構成するのはクォークなど素粒子。電子や光子も素粒子である。

 物質とは何かということが大きく問題になったのが、ヤングの二重スリット実験である。
 一つの光源から1つのスリットを通して照らすと、その後ろのスクリーンには一本の直線を中心した光が照らされる。
 2つのスリットを通して照らすと、後ろのスクリーンには2本の直線ではなく縞模様が現れる。これは光は電磁波であるので干渉を起こすためだ。
 光は光子と呼ばれ、粒子と考えられているが、ここでは波として振る舞うのである。
 この照らす光を少しずつ弱めていくと縞模様がだんだん薄くなっていく。完全に光を消せば真っ暗になるが、その直前にすることで最小の光、光子一粒を出すことができる。
 すると、縞模様ではなく一点の痕跡がスクリーンに残る。
 このとき一粒の光子により一点が照らされるのであるから、一つの光子は2つスリットのどちらかを通ったと考えられる。
 ところが、この光子一粒の計測を何度も繰り返し続けていき、それを記録したものを合計すると、そこには縞模様ができる。一粒ずつ通過したのに干渉を起こしているのだ。いったいどうしてそんなことができるのか。

 まず光一粒を発するというのはどういうことか考えてみる。光一粒はどのように確認しているのか。それは痕跡としての一点を確認することによる。決して、スリットを通過するのを確認したわけではない。すなわち光一粒という考え自体に問題がある。
 ただ光は波として二つのスリットの両方を通して伝播したのだ。このとき粒子という要素はないわけだ。ではなぜその波が一点の痕跡を残すのか。
 その後の実験で、光子だけでなく電子や中性子でも同じことが起こることが確認された。あらゆる物質に波としての要素があるのだ。
 するとスクリーンもまた波としての要素を持っていることがわかる。痕跡を残すスクリーンの側にも波動性があり、その波と光の波がかみ合ったときの頂点がそこに残る。そして、そのスクリーンの波と光の波の状態は計測する方法がないため、その結果はランダムになる。すると、光の波動性による干渉の結果通りの痕跡がスクリーンに残るわけである。
 相互作用する瞬間のみ粒子としての性質を見せるのだということだ。そのため素粒子は位置と運動を同時に特定できない。位置がわかるときは運動はわからず、運動がわかるときは位置がわからない。波は運動するだけで位置を持たず、粒子は位置するだけで運動しないからである。

 このミクロの世界をイメージするならば、プールがよいだろう。あなたはプールの外の地面すれすれからプールの方を見ている。するとプールの水面は見えないが、見えない水面ではたくさんの水があり、波打っている。これが数学的に波動関数によって記述される世界だ。そして大きな波があったり、波同士がぶつかると頂点を作って水しぶきがあがる。このときはじめて水が見える。これが物質というわけである。
 物質というのは波が相互作用した瞬間のことを示しているのである。物質が、ある位置にあるというのは、2つの波が衝突して方向転換したときに生まれる波の頂点のことなのだ。
 光子といった小さな物質だけでなく、大きくて堅い鉄などの物質もその中で波立っており、それが安定した形で反復しているのである。
 物質とは波が衝突する焦点である。

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social capital(社会資本) [OPD]


social capital(社会資本)
 The networks, institutions, relationships, and social customs that determine the quality of social interactions. It has been argued that a high stock of social capital leads to many desirable outcomes including lower crime rates, better health, increased longevity, improved educational achievement, and less corrupt government.
 Social capital has proved a difficult concept to define precisely and has defied direct measurement.

 社会交流の質を決定する連携組織、社会機構、人間関係、そして社会習慣。
 高い社会資本の蓄積が、低い犯罪発生率、よりよい健康、寿命の増進、学力の向上、腐敗の少ない政府など、望ましい結果を導くと論じられている。
 社会資本は、正確に定義するには難しい概念であり、直接に計測することはいまだできていない。

●流言を流すのも犯罪である
 地震の情報を見ていると、ツイッターやヤフーコメントの住人たちの差別発言が実に見苦しい。関東大震災のときに、ああした流言が何を引き起こしたのか全く理解しておらず、情けない限りである。
 ネット社会の欠点の一つは精神的弱者が、公的な発言能力を持ってしまったこと。差別発言の主は単なる情報弱者とは言い難い。情報量だけなら大量に持っており、ただそれを適切に処理する能力がない。
 今までなら周囲の誰にも相手にされず、一言の下に否定される発言も、ネットでは自分と同意見の人を見つけることができ、少数派なのに多数に見えるため安心して発言してしまうのだ。これをガス抜きになると考えるのは誤りで、ただ病状を悪化させるだけである。
 ネットの発言は公的である以上、一定の責任をともなうし、もしも匿名のシステムで発言者が特定できないならば、その場の削除可能な管理者が代わりに責任を負わねばならない。

●社会資本の違い
 日本では、略奪が起きていないことや、列を作って整然と応対する様子を自慢する人もいるが、これは先進国ではそれほど不自然ではない。また厳密に言うと、確かに略奪はないが火事場泥棒はいる。おおっぴらに略奪する人がいないところが違う。
 日本と発展途上国との違いは、社会資本の蓄積の違いである。個人の違いではない。外国人も日本に来て定住すれば、日本人と同じ振る舞いになるし、日本人も発展途上国に定住すれば、現地人と同じ行動をするようになるのである。